『新現実 VOL.3』責任編集 大塚英志、角川書店 (パート1)
サイドバーに載せてたのをまとめ直してみました。でも必要最小限の手直ししかしないつもりなので、現在進行形の文章がそのまま残っていたりします。
雑誌自体はまだ半分弱しか読んでませんが、パート2が書かれるかどうかは微妙。
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ジャンクな文芸誌(除オヤジ系)が読みたくて手に取ったのがこれ。だっていきなりロリコンチックな表紙だったりするんだもん。ジャンクかなって。でも中身は結構まともというかまじめなものだったりした。とりあえず宮台真司×大塚英志の対談を読んでるけど宮台真司が「バカ」を連発したりイライラしてるのがよく分かったり今まで興味持ったことなかったけど頭いい人だったんだってことが分かっただけでも収穫。分厚いので全部は読まないと思う。拾い読み。表紙に「フィギュアはついてません」とあるのがご愛敬。
宮台の戦略というのは分かったけど、大塚の危惧するように、そううまくいくとは私には思えないんだけど。というのも、私たちはそれほど頭よくないから、「裏切り者」と宮台を切り捨てて前近代的改憲運動へと邁進してしまいそうな気がしなくもない。結局付いていけるのは宮台の想定している一部のインテリだけで、それだと宮台のシナリオもパーになってしまうんじゃないかって気がして、ちょっと不安。
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大塚×香山リカの対談に突入。とりあえずそこまで読めばいいかなと。個人的には。雑誌に載ってる小説ってどうして読む気になれないんだろう?
大塚×香山も読了。いやはや。対談はとても面白かったし、まさにその通りだと思ったけど、そんなにひどい状況に(社会が?国家が?)なってるとは知らなかった。そういう世界から遠ざかっていたから。それにイラク人質事件で病気悪化したくらいだからそんなことにまともに取り組んでたら病気治んないし。誤解されてもいいけどひとこと言わせてもらえれば「もっとしっかりしてくれよ、右翼の連中!」に尽きるね。しかし、わたしもいつの間にか香山リカと同じように左の端っこに取り残されちゃってるんだろうな。ケセラセラ。
あと、気になるのが香山リカの危惧。大阪池田小事件などで、長い年月をかけて培ってきた精神医学が作り上げてきたものが瓦解しかねない状況にあると。これは相当にヤバイ状況だ。私も一応「精神病」だからな。あと半年くらいで治りそうだけど。
つまり、精神病患者を「座敷牢」から社会復帰へとの流れがこれまで精神医学が懸命に努力してきた成果なのに、なぜか世論はたったひとつの事件(まあ、尋常ではない事件であるが、個別の)で、ほかの全ての、社会復帰して普通に生活している患者さえも「座敷牢」に戻してしまおうという方向に動きつつあると。
あれがショッキングな事件であるという事実は全くその通りであるが、加害者は精神病患者というよりも人格障害であったのではなかったか?(間違ってたら指摘してくれ)
それに、殺人事件を起こしてしまう人たちの大半は、精神病患者ではない(統計みればはっきりするはず)。
何か、理解できないことが生じると、このすぐあとで登場する上野俊哉が言うように、ある種の短絡(ショートサーキット)がまるで必然でもあるように生じてしまうと言うことなのか?
それは文学の言葉で言い換えれば、「物語」に回収されてしまう、ということになる。これは、精神的に耐えきれないほどの負荷が生じたときに自動的に働く回路のようなものだ。まさにショートサーキット。ブレーカーが飛ぶのとは違う。
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結局大塚×志位の対談も読んでしまう。おいおい志位さん大丈夫か?という気に。最初から全てのことに答えを持っている人はヤバイ、というのは常識ではないのか?志位さんのいうのと違った意味での柔軟性を持たないと、共産党、やばいんじゃないの?それに対して全てのことに全く答えを持っていないのが自民党。ほとんどアメーバ。単細胞で自己分裂を繰り返し、周囲のものを取り込んで栄養にしてしまう。
なんか、我々は恐ろしい場所に立っているような気がするぞ。大丈夫なのか?我々?
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そのあとまた続きを読んでしまう。上野俊哉。知らない。ごめん。池上遼一の描いてきた漫画(もちろん原作者を含んでの話)が、現実化しつつあるというか現実が池上遼一の世界をなぞりつつあるという恐ろしい指摘。池上遼一は雑誌に載ってたのを断片的に読んでたけど、いまの文脈で言えば斬るビルみたいなもんでしょ?半分爆笑しながら読む、というような。
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次は荷宮和子。この人も知らない。ごめん。団塊の世代とジュニアに挟まれた「くびれ」の世代(と本人は言っている)による上野千鶴子論。全編に怒りとヒステリックな感情が充満しているようで少し怖いが、これって私の書くある種の文章と似てるじゃん?ちょっと親近感。でもちょっと近親憎悪。言ってることは頷ける。たとえば文脈を無視して引用すると(ココログでこんなところを引用するのもちょっと気が引けるけど)、
つまるところ、「女を殴る男は人間のクズである、『フツーの男≒女を殴る男』であると言うのなら、フツーの男は人間のクズである、ゆえに、フツーの男には人間として尊重される権利など無い」、これでいいと思うのだが。
なんていうところでは、「うんうん、その通り」とか思っちゃうんだよね。でも、私のまわりには女を殴る男なんていないんだけど。それともみんな隠してるのか?世の中に女を殴る男ってそんなに多いのか?私の母親は、父親に暴力を振るわれたら即離婚、とか言ってたぞ。
さて、論者は上野千鶴子の発言をたんねんに検証しながらフェミニズムに関することを論じていく。のだけど、なんか最初に指摘したような文体で書かれているので、ルサンチマンみたいなものを感じ取ってしまうのだよね、私は。どうしてこういう形式で上野千鶴子を論じたのだろうか?上野千鶴子がときどきこれと似たような崩した文体を使うから(あ、でも上野千鶴子って一、二冊しか読んだこと無いからこの辺のことについてはあまり責任もてません。間違ってたらごめんなさい)?脱構築?それとも、何か裏切られた、というような感情が付きまとうから?それとも韜晦?
で、「戸籍制度を撤廃せよ」という結論には納得がいくのだけど、なんだか唐突な感じがしてしまう。私の読み方が悪いのかもしれない。確かに論理的整合性はあるんだけど、ここで上野千鶴子を論じることと微妙に乖離してしまうような気がするのだよね。
あと、フェミニズムについて私はそれほどよく理解しているわけではないのだけど、先に引用した箇所においては男女の差というのは(ジェンダー?それともセックス?)自明という感じがするのだけど、「戸籍制度撤廃」の箇所に至って初めて性のグレーゾーンが登場するのだよね。
論者の言いたいこととは別に、フェミニズムにおける性のグレーゾーンの取り扱いについて知りたい。誰かよい本を知ってたら教えてください。
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……必要最小限とか言ってた割にはずいぶん加筆してしまいました。まあ、物事とはそのように進行する、ということで勘弁してくださいませ。
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