メンヘルはメンヘル
スガさんの記事を読んで、考え込んでしまった。時間と共に自分が変わっていくのは当たり前のことかもしれないが、病気の前の延長としての変化した将来の自分というものを考えることが、うまくできないのだ。
いまのところ、病状は順調だと医者に言われているが、たぶん不安を煽らないために言っている部分も少なくないのではないか。そうでもなければ、仕事以外の特別のストレスがあまりない現在、「クスリを減らしていく」のが遅すぎるような気がするのだ。
まあ、もう一年くらい病気と付き合ってもいいと思っている。というのも、以前にも書いたかもしれないけど、たぶん過去にパニック障害に掛かっていたと思われたからだ。ある時テレビの健康番組(NHK)を見ていたら、パニック障害の人が出てきていて、その人の症状と私の当時の症状がよく似ていたのだ。
番組のことはあまり覚えていないけど、広場恐怖症だったし、電車には乗れなかったし、あと、これは私の場合だけなのかもしれないけど、拒食と吐き気に数年からそれ以上悩まされた。吐き気の直接の原因は拒食と内臓疾患だったのかもしれないのだけど、半年くらい家からほとんど出ることができなかった。
その頃はパニック障害なんて言葉を聞いたことはなかった。今みたいな適切な処置を受けたらもっと早くよくなったのかな。
で、その神経を病んでいた(としかいいようがない)時期を経たあとに、体も頭の中もすっかり変わってしまった気がした。あとで聞いたことだが、母親は私の記憶力が著しく落ちたことをひどく気に病んでいたそうだ(若い頃のことだったので。それまで私は本当の意味で物忘れをしたことがほとんどなかった。忘れたことにしていた、というのはあったけど。ちなみに今は普通に物忘れがひどいです)。
今の病気に気付いたのは数年前だ。ここには書けないけど、いくつかの理由からどうしても病院に行くことができなかった。その間に波打ちながらどんどんひどくなっていくのが分かっていたのだけど、どうすることもできなかった。
そしてやっと去年の夏、病院に行くことができたのだった。
不安ではないのだけど、たぶん、病気をしないで生きてきたときのコースには戻れないのだと言う気がする。社会的には同じようなことを経験する人も多いだろう(リストラされたりとか)。なんていうか、あみだくじみたいに路線変更して別な人間になってしまうような気がするのだ。それはそれで構わないのだけど、全く不安がないかといえばそういうわけでもない。
そういうあみだくじみたいな人生の路線変更をしているうちに行き止まりにぶつかってしまう人もいるのだろう。私も将来そうならないとは限らない。なにしろまだ鬱病は体験していないのだ。
一直線の、人から見たら詰まらないと思えるような、そういう人生を送りたかったし、もし今後可能ならそうしたいものだけど、たぶん無理だと心の中の私が囁いている。死ぬまで休ませて貰えないのだろう。
ネットに繋ぎ始めた頃はメンヘル系の人がネットにはまる気持ちがよく分からなかったけど(それはとてもその人にとってよくないことのように思えたし、今でもそう思える。自分がそうなのに)、今ではだいぶ分かるようになってきた。
やっぱり、レビューばっかり書くのは無理がありそうだ。だいたい、本のレビューは(『のだめ』でも)そういう自分の心的状態と複雑に絡み合っているからだ(音楽の場合は絡み合っていても適当な言葉でお茶を濁すことができる)。『のだめ』にはまってしまったのも、たぶんそういう自分の心的状態が欲していた、ということなのだろう。必要な本や音楽は、必要なときに現れるものだ。不思議なことに。