『色爆発』劇子式第1回公演@新宿ゴールデン街劇場 2005/10/29
しかし、一回きりというのはもったいないなぁ、と思った。お客さんあれしか入れへんし。別の見方をすれば、ものすごいラッキーだったともいえるんやけど。
ごめん、インチキ関西弁。でもね、最近そういうインチキことばに可能性を見出してしまってるのよ。個人的な話で申し訳ないけど、あ、自分のブログだから構わないか。あのね、ここしばらく買い物依存症になってて(日本車のちょっとした新車一台変えるくらい金使ったんだから、そう言ってもあながち間違いじゃないと思うんだけど)、おもにオークションというやつでいらんものばかり買ってるわけ。いや、個人的にはいるもんなんだけど、私以外の人から見たらガラクタ。同居人がいたら気が狂って出ていくか、あたしのことを刺し殺すか、あるいはもっと穏便に全部粗大ゴミに出すか、って感じなのよ。
でね、日本だけじゃなくて海外にも進出してるわけ。でもかろうじてやり取りできるのは英語だけなんだけど、お店みたいなところで出品してるところの商品説明とかメールとかはすごく分かりやすい、丁寧な英語なの。でもね、今やり取りしてるアメリカのど田舎の(本人もそんなニュアンスで書いてる)おっさんの英語って、ものすごく読みにくいの。下手とかそういうんじゃなくて、「はじめまして。落札してくださり、ありがとうございます」って感じじゃなくて、「よお!マイのマイさんつーのか? おまえさんはラッキーだな。オレのブツを手に入れやがって。でも嬉しいぜ」みたいな。五回くらい読み返さないと意味が取れないの。でもね、それがなんかすごくエキサイティングなんだよね。
だから、延増さんのゴッホと、未映子さんのテオが薄いクリーム色の布で上から下まで全部覆われた舞台に二人で寝そべって、関西弁で話し始めたとき、震えがきたんだ。すごい、キターーーって。
でね、いきなりこの記事に飛んできた人のために書いておくと、私は今SSRIとかSNRIとかの抗鬱剤を飲んでる身なのね。鬱病じゃないんだけど、まあ似たような病気。で、最近それが効きすぎて困ってるんだけど――って話はまあとりあえずおいといて、一日中起きてるときも寝てるときも頭のどこかが常にトップギアに入っていて、今困ってるのが中途覚醒って症状で、これはね、寝てからだいたい三時間くらいで目が覚めちゃうんだよ。何時に寝ても同じ。長時間効く眠剤を二種類と、中途覚醒に効く眠剤の合わせて三種類飲んでるんだけど――ちなみにどれもかなり強力なヤツ。
それでね、すごい、と思った瞬間から、頭のそのどこかの部分がトップギアからオーバードライブモードにはいっちゃうんだ。特に感覚が鋭くなるわけじゃない。その逆の作用をする薬だから。ただね、脳が活性化されちゃうらしくて、体力省みずにものすごい集中力を発揮してしまう。実はそれでいま仕事休んでるんだけどさ。働き過ぎちゃって。
私は演劇をそんなに見てるわけじゃないから批評能力はゼロだけど、それはそれで構わないと思う。それよりも、どれだけのめり込めるか。そっちの方がずっと重要。で、関西弁で始まったところから最後までのめり込んで、友達と一緒に見てたんだけど、一度も客観的になれなかった。
「テオ、握手しよう」
ベッドの中で(実際には二人が舞台に寝そべっているだけなんだけど)ゴッホがテオに言う。このことばはのちにテオ宛の手紙の中で何度も繰り返される。
ゴッホはテオに、おまえは芸術家や、僕は絵を描く、という。二人は一心同体。
そしてゴッホはフランスへ向けて旅立つ。行く先々で先生、仲間、同棲している女と諍いを起こす。なぜならゴッホにはテオから送金してもらう50フラン以外にお金なんて無いし、自分しか見えていない。絵のことしか頭にない。生活能力、人とのコミュニケーション能力ゼロ。うまく行くわけがない。
修羅の道。僕は絵を描く、と言った時点でゴッホも、絵を売るテオもそうならざるを得なかったのだ。
衣食住だけでは人は生きていけない。少なくともそんな人とは会ったことがないし、いわゆる衣食住だけで満足するためには「スローライフ」とか「××式生活」というドレッシングが不可欠なのだ。それはたぶん人が人として生活を始めてからずっと変わっていない。ホモ・サピエンスに滅ぼされたネアンデルタール人は死者に花を添えたという。
でも、ドレッシングだけを選び取ってしまった人たちは修羅の道を歩むしかないのだ。泣き暮れる女を描く、そんなに絵が描きたいなら椅子でも描いとけ、といわれて、椅子を描く。
ゴッホは繰り返して言う。これが僕の仕事だと。でもたぶん、そんなことは不可能なのだ。ゴッホが夢想家だというのではない。たんに不可能なのだ。
テオ以外で、ゴッホに対して多少なりとも理解を示していたのはロートレックだけだった。彼はゴッホにアブサンをやめろといい、パリは彼に合わないんじゃないのかという。
そしてゴッホは芸術家のコミューンを作ろうとするのだが、ゴーギャンと決裂、自分の耳を切り取る。
その後、ゴッホは展覧会に自分の絵を出品し、称賛を浴びるが、僕の求めているのはそういうことじゃないんだという。修羅の道を目指した人たちにしか分からないかもしれない叫び。
そしてオランダに帰り、義妹から、テオは自分の息子が熱を出しているのにゴッホのために絵の具を買い出しに行っていると遠回しに嫌みを言われる。
そしてゴッホは拳銃で自殺する。 嫌みを言われたから自殺したのではない。将来に絶望したからでもない。テオに苦労を掛けていることを知ったからでもない。
舞台は暗転し、最初の場面に戻る。 二人はベッドに寝そべって話をする。そしてゴッホがテオに言う。
「テオ、握手しよう」
*******
この舞台の中に、私の琴線に触れることばがちりばめられていた。でもそれはことばそのものというよりも、あの舞台空間で発話されたことによって得られたものだ。
きれいな色ばかり使っていていいのか、昔使っていた灰色のパレットが僕の色の爆発ではなかったのか。
たとえばこういうことばひとつひとつが私の中の何かと共鳴し、泣きそうになる。泣きそうになるってどういうことなんだろう。悲しいんじゃないんだ。正確にチューニングしたギターを二つ用意して、片方を鳴らして、弦を手で押さえる。そうすると、もう片方のギターも音を出しているのが分かる。たぶん、それと似ているんじゃないだろうか。
これを書いていても、中途覚醒して頭の中で舞台を思い浮かべたときも、泣きそうになる。
最初の「テオ、握手しよう」と最後のそれとは決定的に意味が違う。最初のそれはとても分かりやすい。でも最後にそれをもう一度繰り返すとき、まったく違ったものになる。
それはたぶん、「むかしむかしあるところに……」とゴッホとテオの話が物語化されてしまうことであり、それはどうしようもないほど悲しいことだけど、同時に二人の関係性が永遠性を獲得することでもある。
そうなんだけど、それだけじゃないんだ! 永遠性を獲得すると言うことは普通フリーズドライされてしまうことなんだけど、
「テオ、握手しよう」
という言葉によって、フリーズドライ化を免れ、私たちの中で――少なくとも私の中で――永遠に生き続ける。私が死んだあとも。
そういうことなんだ。
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